2009年春、初めて調律にお伺いした時のお客様が、その後地元公民館への出展で書かれたものをいただきました。
今夕も二階の奧の部屋から、少したどたどしいピアノの練習曲が聞こえてくる。あれはバイエルの何番だろうかと思いながら、私は読みさしの新聞に目を落とす。先月から始まって、今の私にはとても心和む時間である。
それは8年前、平成13年(2001年)隣に引っ越してきたTさん夫妻の一人娘、Kちゃんの弾くピアノの音である。彼女は平成13年1月生まれで、つぶらな瞳を真っ直ぐに向けてくる可愛い女の子である。
長い闘病のあと平成17年に逝った夫は、その頃すでに人工腎臓透析を始めていた。透析を受けた日の午後はぐったりと疲れていたが、お隣から時折聞こえて くるKちゃんの泣き声に、「赤ん坊の泣き声は元気が出ていいな!」と喜んでいた。そのKちゃんも今春、小学校2年生になった。
我が家は平成18年、夫につづいて、一昨年、93歳の義母も旅立った。。二人の仏事がつづいたが、一昨年、平成19年に義母の三回忌も終えた。その時、 看護学校同期生の義妹は、「長い間ご苦労さまでした。あとはあなたのお好きなように」と言い残して帰っていったが、私には夫の作品集づくりや回顧展の計画 が遺されていた。
作品集が昨年末仕上がり、今春回顧展も開催できた。それは夫のかつての仲間や、私の友人達による実行委員会の方々のおかげであった。回顧展の来場者は千 人を超え、従来夫が事務局を担当していた東中国自由美術展以上の盛況と委員会の方々は喜んでくださった。その礼状書きを五月初めにようやく終えて、委員の ひとりYさんを送って出て、表で立ち話をしていたときである。Kちゃんのお母さんが慌てた様子で走って出掛けられた。間もなく手さげ袋を持ったKちゃんと 戻って来られた。私は直感した。
「Kちゃん、何か習い事してるの?」
「そう、もう二年生になったのでピアノを。この春から。」
それにしては日頃、お隣からピアノの音は聞こえてこない。
「お母さん、もしよかったら家のピアノ使ってもらえない?」
「えっ、いいんですか」
「いいどころではないわ。でも次女が高校卒業以来そのままになっているものだけれど」
「Kちゃんどうする」というお母さんの言葉に、
「うん」とKちゃんは戸惑っているような、でもうれしそうに頷いた。
勢いづいた私は、Yさんへの挨拶もそこそこに、Kちゃん母娘を二階の奧の部屋に案内した。途中、夫の作品や道具類が雑多に積まれた仕事部屋を通り、作品 置場を通り、、娘二人が使い、今私が使っている部屋を通り抜けた処がピアノ置場である。二人にとっては初めての隣の家。それも雑然と見慣れない物が混在し 壁にいっぱいに描き止しの絵や、抽象作品の掛かった夫の仕事場は少し怖く、不安を醸したかも知れないと後で気付いた。それでも我が家のピアノ、ディアパソ ンの埃を払って触ってもらうと彼女は「にっ」と笑った。
それから三日後の5月9日Kちゃん母娘は、ピアノの先生のご紹介で調律師の横田さんを伴ってきてくれた。そして先生のピアノもディアパソンであること、またインターネットで調べたらとても素晴らしいものとあった、と言われる。
横田さんは爽やかな自己紹介のあと、慣れた手つきでピアノの蓋を開けられた。Kちゃんは、その中を食い入るように見詰めていた。
「前回の調律の記録は昭和52年(1977年)、32年経っていますね。まず、破損がないかどうか、状態を診て調整、調律をしていきます。それにしてもこの当時のディアパソンはとてもよいピアノですよ。ああ、ここに大橋幡岩さんの銘が入っていますよ。」
横田さんは内部の左上の銘を示された。そして幡岩さんのピアノづくりに懸けられた情熱と功績を語られた。ピアノの購入に当たって夫は同僚の音楽の先生に 相談したと聴いてはいたが、私にはそんなによいピアノという認識はなかった。次女が生まれ、長女が一年生になったとき、同居していた義母が買ったものであ る。なにかにつけて孫のものを「私が買ってあげる」という言い方にもう逆らうまいと悟りはじめていた時期でもある。
三時間ほどで作業が終わり横田さんは、
「さすがにディアパソンは、32年経っていても傷みはなく、狂いはありますが、調整と調律で済みました。半年後にもう一度診せてください」と言って帰られた。費用も私の予想よりだいぶ安く済んだ。
お隣のTさんは「こんなよいピアノ使わせてもらえて調律の費用はうちで」と言われたが、それは固辞させてもらった。代わりにインターネットで「ディアパソン」の資料をコピーしていただくことをお願いした。それは直ぐに届けてもらえた。
その資料によると、13歳でピアノづくりの道に入った大橋幡岩は、「自分の理想とするピアノづくり」だけを念頭に置いてデザインし、採算も、手間も度外 視して「いい音」「納得できるピアノ」を追い求めて、戦後間もない昭和23年(1948年)手づくりによる第一号を完成させた。その後、日本のピアノを国 際的水準に高めた功労で昭和54年(1979年)叙勲もうけたとしている。
我が家のピアノはその少し前に購入したことになる。しかし、横田さんによると「現在においてもディアパソンの職人たちは、基本設計者である大橋幡岩の思 想と技術を受け継ぎ、その理念にさらに近づくために技術を磨き続けている」だけに製作台数や販路はヤマハやカワイに押されているらしい。
この日は我が家のピアノが作られた歴史を初めて知った。と同時にそのピアノに私は、無関心で過ごした事に思い及んだ。30年も手入れされずにきたピアノに、自分の生き方が映し出されたように思われた。
大橋幡岩氏が職人魂を込めたピアノが、久方ぶりに我が家で日の目を見、Kちゃんの小さな手で日ごとにその音を蘇らせてもらっている。その喜びがじわっと胸の内に湧いてくる。
